1912~1926(大正元~15年)
教科内容の充実
大正期には、校舎の増築と共に生徒数も増加し、教科内容も飛躍的に充実した。理科系の出身である大築校主の影響もあって、理科教育に力が入れられたのは、当時としては珍しいことであった。これも当時としては珍しい階段教室で「カエルの解剖」から「人体の生理」まで、厳しい授業を行った。こうしたことを反映して、この頃の卒業生には医学方面に進んだ人たちが多く、学位を持つ人も少なくない。また、ミシンが普及し始めると、早速何台かのミシンが用意され、授業に取り入れられるなど、学習面での進歩はめざましいものがあった。授業は45分で休憩が15分、授業料は1円50銭で若菜会費が50銭であった。
5年制から4年制への課程変更
1914年(大正3年)4月1日、「従来ノ経験ト現今中流家庭ノ状況トニ鑑ミ」5年制課程を4年制課程に変更した。卒業生の回想の中でも、入学志望校選択の際、母親から「貴女は女学校を出たら女医さんの学校へ行くんだから、4年制の学校を受けて入れると、1番早く卒業できるのよ」と言われたという。またこの頃、大築校主は梅・菊・竹・楓などのクラス名も考案した。
制服の制定
1920年、和服の制服が定められた。これまでは、袴の色だけが決められていて、1・2年は海老茶、3・4年は紫であり、和服の袂の長さは最長1尺8寸(59.4センチ)に限定されており、黒の編み上げ靴を履いていた。制服の制定により、冬の和服は紫紺色、羽織も同色。その裏地は1年が赤、2年は桃、3年は緑というように細かく決められた。夏はクリーム色の地色に細かい琴と松葉の模様(「麴町」をもじって「琴柱松(ことじまつ)」と称した)をあしらった木綿の単衣であった。生徒は皆礼儀正しく、下校前には必ず「梳(くしけず)り袴の折目もいつも正しく」していた。制服は裏地も木綿であったが、上級生の中には絹を付け、服装検査の際に叱られることもあったという。
また、襟はキャラコの白であったが、桃色の襟をかけてきて、校門を入る時はそれを中に引っ込め、帰る時はそれを出して帰る生徒もいたとのこと。髪については「尖端的なものはいけない」「耳隠しは絶対いけない」などの校則があった。
大正期の学校行事
この頃の年中行事として、毎年11月頃に開かれるバザーと敬老会があった。
バザーは生徒たちがハンカチ・人形・琴の爪入などを作って販売するものだが、創作的なものが多く好評であった。売店ではコーヒー、ライスカレーなどが販売され、一皿十銭の手作りカレーは特に人気があった。このバザーは男子禁制であった。
バザーに次ぐ行事が敬老会だった。敬老会とは生徒の家庭で60歳以上のお年寄りを招待する催しである。この日のため、生徒たちはあらん限りの知恵を絞って取り組んだ。その中で各クラスの活人画というのが評判だった。これは、物語の一場面をその画面どおりに扮装した人物がそのままの格好で静止して見せる仕掛けである。
この当時の校外学習には宿泊も取り入れられた。春は日帰りであったが、秋は一晩泊まりで塩原や箱根に行った。「女の子が嫁入り前に泊まりがけの旅行なんて許されない」という家庭もあったという。
毎学期末には校庭で成績発表(上位10名)があり、その後通知簿が渡される。級長・副級長は成績上位者から選ばれた。それからお楽しみの若菜会。講堂で教師も一緒に夕方までお菓子を食べながら余興に興じるのであった。
羽根ゲームの考案
有名な「羽根ゲーム」を始めたのもこの頃。箱庭のような無風状態の校庭を利用して10人1組になって行う団体競技で、大築校主と体操担当の牧野美忠教諭との考案によるものであった。ネットを張って行い、今のバドミントンによく似ている。対抗試合も行われ、好敵手は竹早(第二高女)であった。競技は日比谷のグラウンドで行われ、全校生徒が応援に出かけた。神宮球場における早慶戦の小型のようなものが展開された。
その後、羽根ゲームは東京の小学校から全国の学校にひろがって、ついにアメリカの雑誌に「KOJIMACHIの羽根ゲーム」として掲載されるまでになった。
関東大震災の被害
1923年9月1日、関東大震災が発生。翌朝、火災のために本校は全焼した。校舎は地震には耐えることができた。ひび割れ一つなくしっかりと立っていた。建物が四角にできていたので、大揺れに耐えられたのであろう。
大築校主は日本橋の三越で買い物中であったが、やっとのことで学校までたどり着き、何よりも大切な学籍簿を取り出して柳ごうりに詰め込み、それをかかえて四谷の自宅に帰った。しかし、その夜、前の小学校が焼け、隣に普請中の家のカンナくずに燃え移り、その火が本校の理科室に入って、2日午前10時頃、本校は全焼してしまったのである。
大築校主の自宅で緊急の職員会議が開かれた。2学期は9月11日からだったので、明日から授業に困るというわけではなかったが、とりあえず校舎の借り受けや生徒への通知などの善後策が決められた。焼け跡に仮校舎を建てることにし、それが建つまで市ヶ谷の日本女子商業学校の8教室を借り受けて9月20日から授業を始めることになった。新聞で「麴町女学校の生徒は9月17日午前、校舎焼け跡に集まれ」と広告するとともに、生徒の多い地域に教員が手分けしてビラ貼りをした。当日は交通機関もない中で322名の生徒が集まって岩淵校長の話を聞いた。焼死したり行方不明となった生徒も相当いたことが後にわかった。
仮校舎を建てることにしたが、物資が欠乏して何を手に入れるにも困難だった。大築校主も、わらじばきで教室に入れるガラスを買いに駆け回った。11月28日、待望の仮校舎が完成し、12月2日から授業が再開された。240名余りの罹災生徒がいたが、学校は罹災生徒に対して9月分の授業料を免除することにした。保護者からは賞賛の言葉が新聞に寄せられたという。
その後、校舎の復興は次々と進み、1925年には生徒数も600名に回復した。しかし、この復興は学園関係の人々の血のにじむような苦心によって成し遂げられたことを忘れてはならない。
制服に洋服を導入
1926年、当時の女学校の先端をきって洋服を制服に取り入れた。夏はうす茶のポプリン、冬は紺のサージのワンピース、靴下は木綿の黒で膝下まである長い物であった。靴も黒と決められた。上級生になると先生が「お年頃ですから和服になさっては…」とすすめるので和服も多く、洋服に統一されたのは1932年(昭和7年)のことである。