1936~1945(昭和11~20年)
2.26事件と本校
1936年(昭和11年)、2.26事件が勃発した。この事件は軍隊が学校近くの永田町を中心に活動したため、生徒に与えた衝撃も大きかった。
「その日は朝から雪でした。英語のテストの心配をしながら四谷駅でバスに乗り換えようとしましたが、バスはさっぱり来ない。会社員風の人から半蔵門で何かあったらしいと聞いたので、仕方なく雪の市電通りを歩いて行きました。すると学校のそばの大通りやあちこちの街角に剣をつけた兵隊さんが並んでいたので、気味の悪い思いで教室に駆け込みました」(1938年卒業生の話)。
学校ではすぐに生徒を帰宅させることにしたが、平河町方面から通学している生徒については、危険だからということで友人の家に泊まらせた。幸い何事もなかったが、生徒たちは不安な思いのまま数日間を過ごしたという。
鉄筋校舎の建設
1936年、北側250坪の敷地に鉄筋コンクリート校舎の建設が始まった。翌1937年5月30日、8カ月にわたる工程を終えて、白亜の校舎が完成した。地上4階・地下1階、建坪は353坪で、普通教室6、音楽室、作法室、事務室と屋内運動場を備え持つ立派な校舎であった。当時、鉄筋の校舎は珍しいこととされたが、この大英断による校舎建築に、後援会の努力は大変なものであった(工事費6万5,000円のうち、6万円は後援会からの寄付)。この校舎は戦災などを生き延びて「旧鉄筋」と呼ばれ、2002年(平成14年)3月、現在の新校舎に引っ越す直前まで66年間使用された。「旧鉄筋」は、前校舎の生徒用玄関があった箇所にあたる。
この鉄筋校舎の完成後、在校生は1,000名に達し、開校以来の記録的数字となった。
岡田朝太郎が第2代校長に就任
1936年、高齢のため岩淵校長が勇退し、岡田朝太郎が第2代校長に就任した。岡田は数々の法学関係書の著者として名を馳せた東京帝国大学教授であり、日露戦争の時に主戦論を唱えた七博士の一人である。しかし、残念なことに在職1年にも満たない同年11月、岡田校長は逝去された。
岩淵理事長の逝去、大築校主が第3代校長に、稗方弘毅が第2代理事長に就任
新校舎建築中の1937年春、岩淵理事長が踏切事故のため逝去された。学園の内外から大いに惜しまれ、4月13日に盛大な学校葬が営まれた。
この年、58歳になっていた大築校主が校長に就任し、理事長には秋田県知事や和洋女子専門学校の校長を務めた稗方弘毅が就任した。
日中戦争の勃発と勤労奉仕、鼓笛隊
1937年、日中戦争が勃発。生徒たちも各種の奉仕に動員された。陸軍病院の慰問、傷病兵の着る白衣の裁縫、神社の清掃、慰問袋の作製などで、夏休みもこれらの奉仕にあてられた。
1938年、時局を反映して本校音楽部の有志による鼓笛隊が誕生した。太鼓と笛を演奏しながら堂々と行進する麴町高女の鼓笛隊は華やかで勇ましいものだった。後のシンガポール陥落の際には、靖国神社から神田を経て皇居前を通り、銀座通りをパレードした。
校地の拡張、生徒定員の増員
1936年、生徒定員を600名から800名に増員。
1938年、運動場用地として西北敷地180坪を購入。
講堂の建設、学校農園の開設
1940年、2年前に購入した180坪(現アネックスの所)に100坪の講堂が建設された。
この頃、花小金井に1,800坪の学校農園が設けられ、食料難の時代であったので、さつま芋などが生徒によって栽培された。農園には月2~3回の割で通い、掘ったお芋は大切に持ち帰った。
また、防空演習が盛んになり、授業中に突然鳴り響くサイレンで、麴町小学校下まで避難する訓練がしばしば行われた。
5年制過程への変更と生徒定員の増員
1940年度入学生より、修業年限が4年から5年に改められた。文部大臣への「認可願」によれば、「時代の進軍に伴い女子教育は一層其の程度を高むる必要これあり。修業年限が4ケ年を以てしては其の目的を達成する上に於いて充分なる効果を挙ぐること能わざる感少なしとせず」とある。
また、同年度より、生徒定員を800名から1,000名へ増員した。当時、本校への入学希望者は年々増加しており、200名の募集人員に対して、1937年までの応募者が500名前後であったものが、1938年は1,058名、1939年は1,043名と激増している。
太平洋戦争に突入
1941年、太平洋戦争に突入すると、本校も次第に戦時体制に組み込まれ、「身は戦場にあり」というような文字がどの教室にも掲げられるようになった。
1943年、校服が配給の国民服と紺のモンペ姿に変えさせられた。モンペには学校名と住所氏名が縫いつけられ、空襲に備えて夏でも防空頭巾を離さず救急袋を提げて登校した。同年4月発行の本校生徒名簿は、表題が「報国団員名簿」となっており、学校が戦争に巻き込まれている様子が伝わってくる。大築校長が報国団の団長となり、教師は総務部、鍛錬部、生活部、保導部などに分かれている。生徒は「生徒隊」と表現され、第1学年から第4学年までが「第一中隊」から「第四中隊」、そして各学年共4つのクラスが「第一小隊」から「第四小隊」というように組織されている。まさに学校も生徒も軍隊の一部に組み込まれているのである。ちなみに当時の本校は4年制であり、現在のように各学年に同じクラス名があるのではなく、各学年で異なるクラス名であった。すなわち、第1学年が菊・竹・萩・菫組、第2学年が桃・桜・藤・桂組、第3学年が梅・蘭・葵・蔦組、第4学年が松・楓・桐・柏組であった。
風船爆弾の製作
1943年6月には学徒戦時動員が決定し、同年9月には14歳から25歳未満の未婚の女性の勤労動員も決定された。これにより、本校の生徒も勤労動員にかり出され、授業の代わりに様々な工場で働くことになった。その一つとして、本校4年生が1944年夏より翌年3月まで、雙葉・跡見の両高等女学校の生徒と共に、有楽町の東京宝塚劇場において風船爆弾の製作に関わっている。
宝塚劇場では、中外火工品㈱日比谷第一化工紙工場の工員として、朝8時から夕方5時まで勤務し、向かいの帝国ホテルには、制服・私服の憲兵が絶えず往来していたという。
生徒たちの作業は主に、大きな和紙をこんにゃく糊で貼り合わせ、直径10メートルもある風船の本体を作ることであった。こんにゃく糊があまりにも冷たくて、しもやけの手がタラコのように腫れ上がった。毎日のように空襲が続き、常に死と隣り合わせの中での作業だったという。
勤労動員は、ほかに海軍水路部、トキコ川崎工場、中島飛行機武蔵野製作所などがあった。
コラム1: 風船爆弾
風船爆弾とは、太平洋戦争の末期に日本軍によって開発された秘密兵器で、関係者の間では「ふ号」と呼ばれた。タイマーがセットされた焼夷弾や炸裂弾を装置した気球を日本の各所から上昇させ、1万メートル上空に吹くジェット気流を利用してアメリカまで飛ばす仕掛けである。
総重量200キログラムに及ぶ装置を1万メートル上空まで上昇させるために気球の直径は10メートルにもなり、超低温に耐えるバッテリーや高度1万メートルを維持するための高度維持装置を装備するなど、当時としてはハイテクな兵器だった。
この大気球の制作に動員されたのが全国の高等女学校の生徒たちである。気球は国内で調達できる和紙とこんにゃく糊で作られた。デリケートな素材である和紙をチームワークよく貼り合わせるのは女学生が適していると考えたようである。作業場所としても講堂・体育館など天井の高い建物がある学校は都合がよかったようであるが、東京では宝塚・日劇・国際劇場・国技館など主に劇場が使われた。
完成した風船爆弾は、1944年(昭和19年)の11月から翌年3月まで合わせて約9,000個が打ち上げられたが、実際にアメリカで確認された数は400個程度で、その被害は意識的にも黙殺されたようである。
参考: 吉野興一「風船爆弾」(朝日新聞社)
空襲による校舎全焼
次第に激しさを加える空襲を避けて、疎開する生徒も増え、生徒数は急速に減少していった。
1945年5月25日、5発の焼夷弾を受けて本校は全焼。関東大震災以来増築を重ねてきた校舎をすべて失った。しかし、1937年に完成した鉄筋校舎は外側が焼け残り、これが学園復興の大きな力となった。
8月15日、この日は都内に戒厳令が布かれるかもしれないということで、勤労作業は珍しく休みだった。そして、生徒たちは家で終戦の放送を聞いた。
卒業生の見た百年 1
私は1945年3月、本校開校以来初の5年生として、卒業しました。当時は米国の空襲を受けて、東京は大部分が焦土と化しておりました。
クラス会(毎年学年合同)の終了後、新校舎の見学をさせていただきました折のことです。校長先生の笑顔のレリーフの前に立った時のことです。
60年前のことです。実は私、現在の東京女子医大を受験し、合格致しました。このことを報告のために母校に伺った時のことです。歩く度にごとごとど響く廊下から職員室へ、大築校長先生から、よかったね、さらに頑張って勉学に励むように、また学校にとっても名誉になるのですからと、笑顔で喜んで下さったこと、傍らの総務先生もにこにこ笑顔で、喜んで下さったこと、レリーフとそっくりの笑顔で、今でも忘れられないことです。(抜粋)
Tさん(1945年卒)