1945~1950(昭和20~25年)
校舎の復興に着手
戦争により学園は灰燼に帰したが、学園の再興が大築佛郎校長をはじめとする、学園関係者により精力的にスタートした。
終戦間もない1945年(昭和20年)9月半ばには、焼け残ったコンクリート校舎を改修し、授業が再開された。校舎といってもガラスも天井もないガランドウの空間で、方々から焼け残りの机と椅子をかき集め、焼けたトタン板で仕切って教室にした。先生も生徒もまだ疎開先から帰って来ないため、人数はごく少なかった。冬がきてもガラスは入らない。雪が降ると教室の隅に机や椅子を寄せ、オーバーを着たままで震えた。焼け跡に1カ所日の当たる場所があった。休み時間になると、いち早くそこにかけつける生徒が多かった。翌年2月には、バラックではあるが平屋建て仮校舎2教室が建てられた。
1948年、普通教室・校長室・事務室等が増改築され、窓ガラスも入るようになった。また、西側隣接地200坪を購入し、運動場が拡張された。
1949年、コンクリート校舎の大改修(作法室・割烹室・地下室など)が施され、北側に木造2階建て校舎4教室(144坪)が建築された。
1950年、北側に木造で上下2教室と図書室が増築され、運動場400坪の大整地が実施された。
こうして、この年の45周年記念式典までには校庭をL字に囲む校舎の形が整った。
新学制スタート、財団法人麴町学園に
1947年、新学制によって学校の組織替えが行われ、4月1日より新制中学校として麴町学園女子中学校が設置された。1948年4月1日には新制高等学校として麴町学園女子高等学校が設置され、同時に、財団法人麴町高等女学校は財団法人麴町学園に改められた。
後援会の解散、PTAの発足
1948年10月、旧後援会に代わってPTAが発足した。
戦前の本校には在校生の保護者を主体とする後援会組織があり、本校発展のために尽くしてきたが、戦後の教育制度変更に伴い、後援会を発展的に解消し、麴町学園PTAが発足した。
当時の教育活動
高等学校においては、新教育の趣旨に則り、1948年いち早く選択教科制を導入、進学コース・家庭コース・就職コースの3コース制に対応した教育課程を編成した。また、ホームルーム、クラブ活動など教科外の教育活動も始まった。中学校においては、本校高等学校進学を前提とした一貫教育を念頭に置いて、教育課程を編成した。
教科外クラブ活動には、文化部として編集部、図書部、文芸部、演劇部、社会部、英語部、科学部、絵画部、書道部、音楽部、家庭部があり、体育部として、山岳部、水泳部、籠球部(バスケットボール)、卓球部、排球部(バレーボール)、ソフトボール部、バドミントン部、陸上競技部があった。
定期活動としては、麴町学園新聞の編集(編集部)、演劇部の秋季試演、文芸誌「葵」の発行(文芸部)、展覧会(書道、絵画、家庭部)などがあった。
45周年記念式典
1950年11月3日、創立45周年記念式典ならびに記念行事が挙行された。昔の制服にはまだ戻れず、セーラー服の袖にイニシャルを縫い取りした制服で、式は校庭で行われた。式典後の3日・4日に演芸会(合唱・筝曲・舞踊・劇)、バザー、デコレーションコンクールが催された。
また、45周年を記念して同窓会誌「そののわかな」の「45周年記念号」が発行された。