1951~1955(昭和26~30年)
学校法人への組織変更と大築校長の藍綬褒章受章
1951年(昭和26年)3月、私立学校法に基づき財団法人麴町学園を学校法人麴町学園に組織変更し、大築校長が理事長に就任した。また、同年5月3日には、長年にわたって教育事業に従事した功績により、大築校長に藍綬褒章が授与された。
復興感謝の集い
1952年11月1日、復興されつつある校舎建設の労に感謝するため、学園祭に代わる盛大な秋の祭典として、復興感謝の集いが共立講堂で行われた。本校卒業生で宝塚出身の人気スターとして活躍中の久慈あさみ、日本舞踊の花柳寿々太郎が特別出演し、会場は在校生・卒業生をはじめ3,000人を超える参加者の歓声でわいた。
校舎建設の推進
1951年、講堂予定地として隣接地100坪を購入し、東側・平屋建て校舎の隣に木造2階建て校舎を建設した(1階に玄関と校長室・職員室など、2階に3教室)。
1953年、戦後初の鉄筋建築として3階建て校舎(303坪)を東側・平屋建て校舎に代えて建設。翌年には4階に鉄骨造の2教室と図書室を増築した。
1955年、北側の隣接地に体育館を建設した(建坪144坪)。集会にも使用できるよう、当時はまだ珍しい映写室を正面ステージの奥に設置していた。
校服から制服へ
従来の校服を改正し、1954年4月新入生より新制服を着用することが決定。制服は創立時の「元禄袖に袴」から大正初期にモダンな旧制服が制定されていた。終戦後は服地の購入が困難になり、大量生産型のセーラー服を着用していた。服地の購入も自由となって「戦前の歴史ある制服に戻してほしい」との声が高まり、制服委員会により検討が行われた。その結果、歴史ある従来の制服に、なお改善を加え、近代的で気品のある新制服が決定された。この制服が2001年(平成13年)の現制服制定まで基本的に継続されることになる。
第二次後援会の発足
1955年6月1日、学園の発展を援助することを目的として、PTAとは別に後援会が再発足した。この後援会は、創立50周年を機に前年度卒業生保護者が発意したもので、卒業生保護者を母体にしながら在校生の保護者にも呼びかけて組織されたものである。
日帰り遠足の実施
従来、全学年で行われていた宿泊旅行が見直され、1954年度より、中3・高3を除いて日帰りの遠足となった。
中3・高3は共に関西への修学旅行で、高3の場合、6泊7日(うち車中2泊)で、伊勢・二見・吉野・奈良・京都・琵琶湖・比叡山などを見学するものであった。
50周年記念式典
1955年10月15日、創立50周年記念式典が盛大に挙行された。
生徒会では、15日・16日にクラブ活動展覧会、音楽部(合唱)・演劇部(夏の夜の夢)・英語部(スピーチコンテスト)の発表会が行われた。同月18日には、体育館開きが行われ、日本体育大学男子部女子部学生の徒手体操、ダンス、器械体操の模範演技が演じられた。同月21日には、松屋グラウンドにて、大運動会が行われた。同月23日には、共立講堂において「祝賀の集い」があり、劇団「鴨の会」による「三年寝太郎」の演劇、音楽部による合唱、花柳寿太八ほかによる舞踊、放送部によるクイズが行われた。
なお、1955年の学園の学級数と生徒数は、21学級、生徒合計1,265名である。中1・中2は菊・竹・萩、中3は菊・竹で8学級、高1・3は松・楓・藤・葵・柏、高2は松・楓・藤で13学級であった。
卒業生の見た百年 2
1946年、敗戦の翌年に私は入学しました。入学試験は、簡単な文章と、面接だけでした。後者は一部だけ残った鉄筋の3階建てと、いくつかの木造の教室で、壁面から鉄の棒が折れ曲がって突き出ているような校舎でした。水漏れする地下室で、当時急速に流行りだした英語の歌を、隠れるようにして歌い合うことが何よりも楽しみでした。
混沌とした世の中で、学校も家庭生活の中でも、これが当然と受け入れられた現実でした。少しも辛くなく、むしろ学校に通えることが大きな喜びでした。
何でも覚え、何でも掴んで、自分が早く大人になりたいという気持ちで、先生を見つめていた自分の姿が思い出されます。当時の卒業式は、2つの部屋の仕切りをとって行われました。ピアノを弾く先生が、鍵盤の上に涙を落とされたことが忘れられません。「仰げば尊しわが師の恩」は、今でも胸の中を熱くするものです。
Iさん(1952年卒)