1956~1960(昭和31~35年)
大築校長夫妻の喜寿・古希と初枝夫人の逝去
1956年(昭和31年)10月20日、大築校長の喜寿、初枝夫人の古希の祝賀式が行われたが、約1カ月後の11月29日、初枝夫人が狭心症で急逝された。享年69歳。夫人は逝去当日も学園参与理事として勤務された後、家庭裁判所の調停委員会、母と学生の会の常任理事会と3つの仕事を担当していた。
突然の死を学園内外から惜しまれつつ、12月6日に学園講堂で全校生徒の参加による学園葬が営まれた。
「萩咲いて 想い出もまた 多きこと」という句に、学園と夫人との長い歴史が偲ばれる。旧校舎のチャイムは夫人を記念して取り付けられたものであった。
大築校長の入院と生徒たちとの交流
1957年9月29日、大築校長は脳溢血のため入院。翌58年5月14日に退院し、自宅で療養された。その後も、入退院と自宅療養が続いたが、病院から四谷左門町の自宅へ向かう途中に車を学園に寄らせ、工事中の校舎を視察したところ、体操の授業中の高校1年生が車に向かって手を振って応えた。1959年に大築校長が担架で登校した際も、校長室で生徒代表による挨拶と、新聞部のインタビューを受けた。さらに校庭の全校生徒へ担架上より挨拶し、歓声にわく生徒たちを見て、涙ぐまれていた。
山中湖畔に教育施設購入
1958年、山中湖畔に教育施設として2,100坪を購入。
バレー・テニス・バスケットのコートを整備し、運動部などの夏期合宿に利用されるようになった。当初は2クラス規模の宿泊設備も建設される予定だったが、実現せず現在に至っている。
鉄筋校舎の完成
1956年9月、北側の木造2階建て校舎に代えて鉄筋4階建て校舎を建設(建坪420坪)。この結果、屋上は東側校舎と合わせてL字形の運動場になった。また、これを機に校庭が完全に舗装された。
1957年、南側の隣地282坪を購入し、2学期より第2運動場として利用された。
1959年3月、東側の木造2階建て校舎に代えて鉄筋4階建て校舎(建坪550坪)を建設。
1960年3月、南東角(第2運動場の東側)30坪の敷地に鉄筋5階建て校舎を建設(1回玄関・ロビー、2~4階普通教室、5階集会室)。
同年9月、東側鉄筋4階建て校舎の5階に3教室を増築、同じく校庭側用務員室部分を鉄筋で4階化し、保健室・生徒会室などに利用。
また、この年の冬、ストーブに代わり、石油ボイラーによる全館スチーム暖房設備が完成した。
55周年記念式典
1960年、学園は創立55周年を迎えた。10月1日に全校生徒による式典、翌日に保護者・来賓を招いての式典・祝宴が催され、両日クラブ活動の発表会が行われた。同月4日には千駄ヶ谷の東京体育館で初めての屋内運動会が行われ、同月7日に、日比谷公会堂でポニージャックスなどを招いて「祝賀の集い」が開かれた。
55周年の記念品として、生徒に手鏡、保護者・学園関係者に益子焼の菓子皿、表彰者には花瓶または銀器が配られた。
なお、1959年の学園の学級数と生徒数は、29学級、生徒合計1,852名である。中1・中3は菊・竹・萩、中2は菊・竹で8学級、高1は松・楓・藤・葵・柏・桐・梅・桜、高2は松・楓・藤・葵・柏・桐・梅、高3は松・楓・藤・葵・柏・桐で21学級であった。
卒業生の見た百年 3
私の入学は1952年4月。通学路の三宅坂には米軍のかまぼこ兵舎が並び、お堀端には都電が走っていました。焼け残った5階建ての鉄筋ビルと、それに連ならる2棟の木造の校舎が私たちの学びの場でした。
そんなこんなを懐かしく思い出していますと、どこからかパタンパタンという上履きの音が聞こえてきます。大築校長先生の足音です。実験着のような黒い上っぱりをお召になり、先生はよく授業中校舎を回っておられました。時々、私たちの教室の前で足音はピタリと止まります。「アッ、先生が私たちの授業を聴いていらっしゃる」と、教室内の私たちの緊張は大変なものでした。また、時には飛び込みで特別授業などをなさり、さりげない話の連続の中で、「次世代を育成する女性としての学問の大切さ」を熱心に話して下さいました。そしてしめくくりは、いつも「・・・・・。以上」でした。
今は昔の懐かしい思い出です。
Nさん(1958年卒)