学校の歴史
Chapter11

学園紹介Guide

1971~1975(昭和46~50年)

演劇部、最優秀校に

70周年当時の校舎

1973年(昭和48年)12月2日に行われた東京都私立中高演劇発表会で、演劇部が阿部公房の作品「かばん」を上演し、最優秀校に選ばれた。これに先だって行われた11月の東京都高校演劇コンクールでも優秀校に選出されている。

高校教育課程改訂

文部省の高校教育課程改訂に伴い、本校でも1974年4月入学生から、新教育課程が実施された。本校における改訂の特徴は、A・Bコースの別をなくした点である。

従来は高2から生徒の希望によりA・Bコースにクラス分けしてきたが、学習と生活指導の両面に様々な問題を生じさせたとの意見により、コース分けの廃止に踏み切った。科目名などに大きな変更はない。

校舎の一部拡張

1974年4月、講堂に隣接した校庭側に、鉄筋5階建ての校舎を増築した。1階は会議室、2階が生徒面談室と体育教官室、3階・4階は普通教室、5階は中学理科室として使用される。

高校修学旅行先が東北へ

1974年10月、高校の修学旅行先が九州から東北へ変更になった。東北への修学旅行は、1976年まで3回続けられた。

地下鉄麴町駅開設

開設当時の麴町駅

1974年11月、地下鉄有楽町線の延伸に伴って麴町駅が開設された。この結果、通学の利便性がさらに増すことになった。

PTA校外補導委員会、学級・学年委員会の設置

1975年、生徒の校外生活が正しく行われるよう学校側の指導に協力し、地区ごとで補導にあたることを目的として校外補導委員会が設置された。これによって、従来の奨学・設備・厚生の3部門委員会が4部門になった。

また、各クラスに学級委員6名を置き、学級・学年委員会の活動を組織的に行うことになった。

後援会の改組

1975年、後援会が改組され、卒業生の保護者有志のみの会となった。後援会は、学園に対する後援を強めるため、1955年に卒業生保護者および在校生保護者の有志が合同して結成した。しかし、卒業生保護者と在校生保護者は立場が違うので別々に後援活動をする方が望ましい、という声があり、それに従って新しく卒業生保護者を主体にすることになったものである。

70周年に向けての校舎改装

1975年、創立70周年に向けて、全館のアルミサッシ化や外装工事、正面玄関の改装、校舎前面の花壇造園が施された。また、校章・校名入りのサインボールや校名碑が設置され、玄関のイメージアップが図られた。この校名碑は現在、校舎玄関横の植え込みに移設されている。

70周年記念式典および祝賀会

70周年学園祭の後夜祭

1975年11月7日、講堂で創立70周年記念式典を挙行した。午前は在校生を対象に、午後は来賓、保護者、同窓会、後援会等の方々を招いて実施され、午前の式典では中学生による「タンホイザー」の器楽演奏、午後の式典では高1による「天地創造」の合唱が行われた。

同日、午後3時より東条会館4階呉竹ホールで祝賀会が催された。400余名が参加し、卒業生の司会・余興を中心に楽しい会となった。

70周年の記念品として、保護者および学園関係者に益子焼の飾り皿が、在校生には校名入り直定規が配られた。

なお、1975年の学園の学級数と生徒数は、31学級、生徒合計1,380名であった。

卒業生の見た百年 6

私が女子校に進学したいと思っていた時、兄の友人であったOさん姉妹の制服姿に一目ぼれし、麴町学園に入学しました。私が入学した当時校内は、はっきり言って乱れていました。毎朝生徒通用口には風紀委員と先生方が立ち、服装の乱れ(当時はひきずりそうな長いスカート)などをチェックされたのを覚えています。私も背のびをして、一人前の大人のつもりでいたのがおかしくも懐かしい思い出です。高3になり、ヤル気をなくしていた私に光を照らしてくれた先生との出会い。勉強がおもしろくなり、大学へ行き教師になりたいと思う程私は変わり、本当に充実した一年間でした。教師にはなりませんでしたが、今麴町学園の学校茶道で生徒達にお茶を教え、触れ合えることに喜びを感じております。生徒会役員、こきりこ、九州への修学旅行・・・、そして今もつきあう良き友達。どれも今の私を育ててくれた、すばらしい麴町の宝物です。

Sさん(1974年卒)