1976~1980(昭和51~55年)
永山教頭が校長代行に就任
1977年(昭和52年)8月、平野毅校長が勇退し、永山早苗教頭が校長代行に就任。平野校長は7年4カ月にわたって校長を務めたが、健康上の理由で8月31日をもって校長を辞任。
校庭改装と第二校庭の新設
1977年9月、校庭がレイコールド・ウォークトップ方式のカラー塗装に改装された。バレー、テニス、バスケットボールのコート条件が格段に向上したほか、従来のアスファルト面に比べ、接地のバウンドに柔らかみがあり、安全度が大いに高まった。
1978年10月、校舎西側に新しく購入した校地が第二校庭として利用できるようになった。
河本尚が第7代校長に就任
高校修学旅行が萩・津和野・広島方面へ高3で
1978年5月、高校の修学旅行先が東北地方から西中国地方(萩・津和野・広島方面)へと変更になった。また、従来は高2の秋に実施していたが、この年から高3の5月に実施時期が変更された。
以後2002年に海外に変わるまで、西中国地方が長く修学旅行先となった。
高3・中3で夏期講習を開始
1978年8月、学力増進のための夏期講習が実施された。当初は高3に限り、英・数・国の3科目、7日間であった。翌年は中3でも同様に実施され、以後、科目や期間を拡大して現在まで続けられている。
全校一斉漢字テストの実施
1979年1月、「漢字・読み」の全校実力テストが実施された。教育漢字の範囲内で中1から高3まで同一の問題であった。
これは全校生徒が共通の勉強課題に取り組んでいく姿勢や意欲の向上を目的としたもので、成績が優秀な生徒には校長室で校長より賞状が授与された。
翌年からは年2回実施され、中学、高校は別問題となった。このテストは範囲を常用漢字に拡大して現在も引き継がれている。中学は年5回、高校は年2回行われ、各回ごとに成績優秀者には賞状が与えられるとともに、3年間を通じて成績が優秀な生徒には卒業時に「学園賞(漢字部門)」が授与される。
水泳に能力検定
「全員が泳げるように」という目的で、1979年度より水泳の授業に能力検定が導入された。生徒の意欲を喚起し、泳力をつけるために”級”を設け、合格した生徒は水着にその級のワッペンを付けるものである。
この検定は20年程続けられた。
ワッペンは、9級の”亀さん”に始まり、1級は”ドルフィン”であった。
コラム3: 教育目標「聡明」「端正」
「聡明」とは辞書によりますと「さとく道理に通達していること」また「才知が鋭く、判断が明らかなこと」となっています。やがて社会人になる生徒達にとって、もっとも必要なことは「ものごとを判断する力」だと思います。職業人であれ家庭人であれ、本当の良妻賢母になる必要があります。家事であれ勤務上の仕事であれ、まちがいなく処理できる能力が必要です。それには正しく判断する力が基本になります。ですから「聡明」であってほしいと念じる次第であります。
「端正」は辞書によれば「きちんとしていること。ととのっていること。行儀正しいこと」となっています。これは説明を要しない自明のことと思います。男性も同様でしょうが、女性はとくに端正を必要とすると思います。「端正」な女性が多くなれば、世の中もおのずからきちんとして、すがすがしいものになると思います。
授業をしっかりやって生徒の学習成績を上げることはもちろんおざなりには出来ませんが、それを超えたはるかかなたに「聡明」であり「端正」である人物の育成を心がけていきたいと思っております。
(同窓会誌「そののわかな」第21号 河本校長「聡明であれ」「端正であれ」より要約)
卒業生の見た百年 5
私が麴町を選んだのは、制服に憧れ、祖母と母が憧れた学園だったからです。祖母と母は残念ながら入学しなかったため、私が通学することを大変喜びました。東京に長年住む知り合いの方からも麴町の評判は高く、私はとても誇りでした。勉強は苦手でしたが、とにかく学園に行くのが楽しくて!あの頃足腰を悪くしていた私は、歩行困難なときも父の車で通学。売店に牛乳を搬入するお兄さんが毎朝待っていて下さり、3階教室まで背負って下さいました。担任のS先生が、とにかく登校して来る私のために近くの医院を探し、背負って通院して下さいました。生活指導でとても怖い先生!で有名でしたが、私には優しい想い出しかありません。たくさんの先生方、友達に恵まれ、机に向っての勉強以外の色々なことを学び、想い出をたくさん作りました。卒業してからも学園が恋しくて、先輩であるSさんが学園にお勤めで、可愛がっていただいていたので時々顔を出し、職員室で先生方と出前を一緒に食べたり、同窓会の手伝いもさせていただいています。
Iさん(1976年卒)