1986~1990(昭和61~平成2年)
中1英会話授業開始
1986年(昭和61年)、英語学習の入門期において「音声指導」を重視しようということから、中学1年生の英語の時間に、外国人講師による英会話授業が取り入れられることとなり、週4時間の英語の授業のうち、1時間が英会話の時間となった。この「英会話」授業は、平成2年度に中学2年生に、平成3年度には中学3年生に拡大された。
九十九里での高1オリエンテーション合宿開始
1986年5月、高校入学者に対する試みとして、オリエンテーション合宿が千葉県九十九里浜において2泊3日の日程で実施された。砂浜の砂を使って、クラスで一つ大きな作品を仕上げる「砂の芸術」や、舞台を使ってのクラスの出し物などに取り組む中で、クラスの親睦・団結が図られた。以後1993年まで、毎年5月に実施されている。
駒沢球技場での体育祭
1986年9月、東京体育館改修工事のため、駒沢球技場において体育祭が開催された。以後、1990年まで5年間は駒沢球技場において体育祭が開催された。屋外グラウンドのため、雨天による中止など実施には様々な苦労が伴った。
村中駿博が第8代校長に就任
1987年4月、9年間本校の教育に尽力した河本尚校長が勇退し、村中駿博が校長に就任。村中新校長は、都立竹早高校等の校長を歴任し第8代校長として本校に就任した。
新体育館が完成
1989年(平成元年)11月、正規のバスケットコートがとれるフロアを持つ体育館が完成した。地形の関係や近隣への配慮から、大部分が地下となり、12メートル掘り下げて建設。1階に教官室、トイレ、シャワー室、クラブ部室などの設備が設置され、クラブ部室が特に広くなった。屋上は校庭にしてネットで覆い、近隣に配慮しつつ有効利用できるようにした。
新体育館落成記念式典
1989年11月25日、新体育館落成記念式典が行われた。来賓約120名(区内公立・私立学校関係・建設業者関係・3団体等)とクラス代表生徒が参加。第一部(式典)の後、第二部では本校ダンス部・新体操部の模範演技、日本体育大学学友会体操部による体操演技、サチ・コヤマによるジャズ・バレエが披露された。
冷暖房設備が完成
1989年、念願の全教室にわたる冷暖房設備が完成した。
大築邦雄が学園長、小山田三郎が理事長に就任
1990年、大築邦雄理事長が勇退し、学園長に就任。代わって第5代校長であった小山田三郎理事が理事長に就任した。
中学入学者増加、蘭組復活
中学応募数が年々増加し、1990年に500名を超えた。
一人でも多くの受験生の希望をかなえる努力をしようということで、従来3学級のところを4学級とした。そのため、急遽理科室を普通教室に改造するなど、対応に大わらわであった。次年度より4学級募集となる。また、同時期の「学園だより」には、小・中学校の生徒数の減少に伴うその後の生徒募集への危機感についても併せて記されている。
85周年記念音楽会
1990年9月29日、85周年記念音楽会が開かれた。この音楽会は「85周年の記念に、毎年の音楽鑑賞教室に生徒にも参加してもらって、お祝いの会にしよう」という校長の発案から、計画されたものである。保護者にも聴いていただくため、会場は2,000人収容できる日比谷公会堂を借り、演奏は家田厚志氏指揮のN響団友オーケストラにお願いした。その後、思いもかけず世界的バイオリニストの海野義雄氏が特別出演に応じて下さることになった。
第一部はオーケストラ演奏。海野義雄氏もモーツァルトの「バイオリン協奏曲第三番」を演奏された。第二部は、オーケストラをバックに在校生も参加しての合唱で、ハイドンの「天地創造」を歌った。ガブリエル詠唱は卒業生の泉地香子氏、重唱は本学園講師の斉藤・林両先生で、共に艶のある歌声を披露してくれた。最後はベートーベンの交響曲第九「歓喜の歌」を全員で合唱した。
なお、1990年の学園の学級数と生徒数は、37学級、生徒合計は1,617名であった。
卒業生の見た百年 7
入学式、同級生との毎日の他愛ないおしゃべり。修学旅行などの各種行事。卒業式。中学生の頃からお世話になった麴町学園。高校卒業までの6年間には、数え切れないほどの思い出があります。同級生は非常に個性豊かで、一人ひとりの良さを皆が認め合う雰囲気がありました。出る杭は打たれるどころか、その長所を互いに伸ばし合える環境が用意されていました。
先生方も大らかに私たちを受け止めてくださり、今の時代と比べれば、ゆったりとした時間があり、生徒と触れ合う時間を大切にしてくださいました。授業を通じて多くを学ばせていただきましたが、今振り返ってみれば、すばらしい先生方との語らいの中で、それ以上のものも学ばせていただいたことに感謝しております。
Sさん(1988年卒)